感知力(気付きへの目の付け所) シリーズ
はじめに
いまは激動の時代です。名の知れた古くからある大会社がいつの間にかなくなっています。
世界中で起きる事柄が互いに関連し影響し合っています。
IT関連の進歩のすさまじさはどうでしょう。昨日は夢であったことが今日は可能となっています。
加えて、日本には急速な人口減少という特殊要因もあります。
変化が緩やかな世であれば、経験は役に立ちます。
昔経験したことにより得た知識教訓が、現時点でも充分通用するからです。
しかし、変化が激しければ、昔の経験があまり参考になりません。社会の背景がどんどん変わっていくからです。
昔はこうであったという知識よりも、いま現状をどう見るかという判断が大切です。
いやその前に、変化に出会ってそれをありのまま受け入れること、すなわち正しく感じとる能力が必須となります。
いまはどこに行っても創造性が大切だといわれます。
創造性は、変化を感じ取ることから始まります。
したがって、“変化を感じ取る能力”とは、創造的発想力の別名でもあるのです。
変化を鋭く感じ取るには訓練されたセンスが要ります。
人は大切な変化をほとんど見過ごしてしまいます。
このシリーズは、重要な目の付け所を以下の流れに沿って述べるものです。
感知力 の話の流れ
1. 人が気づく条件について
関心のあることのみ見える
見たいことにそってみる
2. 人の判断の特性について
一致したことは信じやすい
感覚にはくせがある 錯視
3. 考えを固定化するループについて
4. 創造的に問題をとらえるとは
問題=ありたい姿―現実
5. 創造的問題解決するには
問題のタイプ
(1) はっきりした問題 しかし、今までのやり方ではうまくいかない
(2) 混沌として問題自体が分からない
タイプ1への対処
タイプ2への対処 原理的視点の当てはめ
原理的視点を見つける方法 : 当然と思っていること、ありふれていることを意識的に見直す
新しいことに気が付くとは | 見たいことに沿ってみる | 物の見方の形成 | 感覚について |
1. 新しいことに気がつくとは?
世の中には勘の鋭い人がいて、通常何でもない事柄から新しい知識・情報を引き出す人がいます。
そのような例を2つ挙げてみましょう。
1つは、松下電器の2またソケットに関するものです。松下幸之助氏がソケットを売ってまわっているとき、薄暮れの街角で、
「電灯をつけないと本が読めないじゃないか。アイロンを止めてくれよ」
「もう少しだから待って」
という会話が聞こえてきました。彼はこれをヒントに2またソケットを思い付き、それが今日の松下電器の基となりました。
もう1つの例として、タイヤ業界の雄であるブリヂストンを創始した石橋正二郎氏が挙げられます。
彼は当時久留米で足袋を作っていたが、商用で上京したとき、東京では市電はどこまで乗っても料金は一定であることにハッとくるものを感じました。
当然のことながら、足袋にも多くのサイズがあり値段が異なっています。
しかし、値段を統一すれば管理費が下がり、その分だけ安い値段で済ませることができるのではないかと思い至り、これをすぐ実行しました。
同じ事実を見たり聞いたりした人は、他に大勢いたはずです。
なぜ、このような普通の出来事(すなわち事実)の中から、問題を嗅ぎ取り重要な情報を引き出すことが彼らにできたのでしょうか。
そもそも事実とは何でしょうか。
このような問いを立てて、気付きの問題に分け入りましょう。
1.1 事実について
‘これは事実です’といえば、我々はそれが客観的な事柄のように受け取ってしまいます。
‘事実’という言葉には、それほど人にその内容を押し付ける強い響きがあります。
しかし、既に起きたある出来事は、誰が見ても同じなものでしょうか。目を凝らして、見つめ直してみましょう。
■ 関心のある事が見える
たとえば、電線に鳥が3羽とまっているとします。
鳥に関心を持てば、その鳥は何という鳥か。雄か雌か。何歳か。健康状態は。重さは、おおきさは。
電線に関心を持てば、どんな種類の電線か。どこのメーカか。鳥により電線がどれだけたわんでいるか。
その他いくらでもつまらぬ質問ができます。これらの中の何が分かれば事実が分かったといえますか。
実際、我々がある事柄を取りあげて、「これが事実です」というとき、
それは多様な実態の中から自分の関心のあることのみを取り上げているのです。
すなわち、意識的にせよ無意識的にせよ、ある目的に沿ったもののみを取り上げているのです。したがって、
関心のあることはみえ、関心のないことみえない。
これは、人間に限ったことではありません。
秋も更けていくと多くの虫が鳴き競い、我々日本人には風情のあるものであるが(ただし、西欧人には単にうるさいとしか感じないらしい)、
個々の異なった種類の虫は他の種の虫が鳴いているのをどう聞いているのでしょうか。
お互いにうるさいので、自分を主張するためできるだけ大きく鳴こうとしているのでしょうか。
じつは、コオロギの雌は雄の歌だけを聞いているのです。
その聴覚は、雄の発する音の振動数に同調していて、その他の音は聞こえないのです。
いや、聞く必要がないのです。彼女たちの関心は、雄の発するメッセージを聞くことにあるのだから。
虫は、多くの刺激の中から自らに必要なもののみを選択して受け入れているのです。
これは、人間を含めて全ての動物についていえることです。
長い進化の過程で、動物はそれぞれの環境の下で、生き残るという大目的に沿って、自分に必要な情報に敏感に反応するようになっています。
人間の認識もまた、自分の知りたいことを知るという目的に沿って行われています。
言い換えれば、起こっていることを自分の関心のあることに沿って理解し意味付けしているのです。
たとえば、我々に好きな異性がいるとき、相当多くの集団の中からでもそれを素早く見つけ出します。非常な関心があるからです。
フランスの科学的犯罪捜査法を教える学校の教室には、
「眼は、それが捜し求めているもの以外は見ることができない。
捜し求めているものは、もともと心にあったものでしかない」
という標語が掲げられているといいます。
シモンズの実験とよばれる、イリノイ大学の心理学者ダニエル・シモンズの実験結果は、大変衝撃的です。
これは25秒のビデオで、白いTシャツの3人と黒いTシャツの3人とがバスケットボールを行っています。
白チームがボールをパスして回し、同時に黒チームが別のボールを回す。
そのあいだに、黒いゴリラの着ぐるみが現れ,ゆっくりと中央に歩いてゆき、胸をたたいて去っていきます。
ゴリラはまったくあからさまな普通のものです。
ところが、白チームの間で何回パスが回されたかを数えるように言われたあと人々がこの映像を見ると、
その大多数がゴリラを認識していないのです。
ちょっとした注意の偏りを起こすだけで、ゴリラほどの明確な存在を見失うのです。
すなわち、われわれが事実と呼んでいるものは、実際に起こった多様な事柄の中から自分に関心のある部分のみを切り取ったものなのです。
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感知力(気付きへの目の付け所) シリーズ(2)
■ 見たいことに沿ってみえる
人は同じ出来事を前にしても、それを自分の見たいことに沿ってみてしまう。次の例を使って、これを示しましょう。
ある100人の集団があり、それは多数派のAグループ90人と少数派のBグループ10人より成っています。
双方とも、相手のグループに対しある偏見を持っています。
多数派AのBに対する偏見
「Bは油断のできない輩で、その50%が盗みもやりかねない連中である。
自分たちについては大体正直者の集まりで、その3%程度が不正直である」
少数派BのAに対する偏見
「Aは大変嵩にかかったいやな連中で、その30%くらいはずるいやつである。
自分たちは、中にはいけない者も10%程度いるが、大体努力家である」
さて、この100人が連れ立って旅行に行くことになったとしましょう。
そして旅先で誰かが不用意に、“あれ、俺の財布が!”といったとします。
本当は自分が忘れたのかもしれません。あるいは、探せばあるのかもしれません。
しかしながら、それを聞いたとたんに、Aグループは、“だから来るんじゃなかった。どうせBの仕業だ”と思います。
同様に、Bグループはこれとはまったく反対の結論、すなわち、Aグループの犯行を確信します。
その結果、今まで自分たちが心に描いていた‘相手に対する不信感’を互いに強めるのです。
各々のグループがそのような確信にいたる道筋を説明してみましょう。
Aグループの見解、
「悪い連中の数は、Bに属する10人の内の50%である5人と、自分たちのAに属する90人の内の3%である2.7人である。
すなわち、合計7.7人である。したがって、犯人がBグループである割合は、5/7.7である。
これは相当高い率であり、日頃Bを疑っている率(先験確率)の50%より更に高い値である。Bが犯人に違いない。」
Bグループの見解
「悪い連中の数は、Aに属する90人の30%である27人と、自分たちのBに属する10人の10%である1人である。
すなわち、合計28人である。したがって、犯人がAグループの者である割合は、27/28である。
この値はほとんど確信に近いものである」
このように、双方のグループとも同一の出来事を自分のみたい方向に沿って解釈し、今までの見方を更に強めるのである。
ブルーナーとポストマンのカードを使った心理実験があります。
それは、トランプのカードをちょっと見せて、それが何のカードであったかを当てさせるものです。
そのトランプは仕掛けがしてあり、大部分の正しいカードのなかに、少しだけ変わったものを混ぜておきます。
たとえば、スペードの赤の3とかダイヤの黒の5とかです。
実験の結果観察されたことは、普通のカードはもちろん正しく言い当てられるが、変則的なカードに対してもその変則性に気がつかず、
正しいカードとみなして答えることでした。ダイヤの黒の5は、ダイヤの5という返事が返ってきました。
この実験は、起きた事柄を、すでに在る自分の心の枠組みに沿って我々が見る傾向があることを示すものです。
アメリカにおける大学対抗アメリカンフットボールの観戦者の反応に対する調査でも、同じことを示しています。
各大学の応援者は、同一のプレーから互いに相手側に実際以上に多くのルール違反を見出し、
反対に応援側には実際以下の違反数しか見出していないのです。
我々は、物事のありのままを見ていると思わない方がよいのです。
あのイソップ物語にある“裸の王様”のようなものかもしれません。
■ 物の見方の形成
それでは、ここで人の認識の特徴を調べ、‘人はおのおの自分のフィルターを通してしか見ないという性質・性格を持っている’ことを明らかにしましょう。
そして次に、社会レベルでのその時代の共通したものの見方(これをパラダイムという)がどのように形成されるかをみて、
その形成に関する要素がループをなしていることを示し、このことを人の心理や歴史的事実を用いて詳しく実証してみます。
[1] 人は一致したことを信じ易い
“人は経験を通して自らの見解を固めていく”と考えるのは自然でしょう。
ある事に処する場合、自分の心のうちにそれに対する判断の基準がないときは、人は大変不安なものです。
したがって、その基準を形成する確かなものが欲しいのです。
ここで、経験というものは大変説得力のあるものであるがゆえに、経験したことで一致したことは信じやすいのです。
我々がずっと昔、因果の関連を洞察する知力がまだ不充分な動物であったころを考えてみましょう。
不安の中では、何度かうまくいき危険のないことがはっきりしている行動に信頼を置くことは理に適ったことです。
この動物的な記憶が、我々の深層心理に刷り込まれているのではないでしょうか。
「3人市虎(しこ)」という中国の言葉がある。
町のなかに虎が出たことを最初に人から聞いたときは信じないが、2人目に聞いたときは多少不安になり、
3人目から聞いたときはそれを信じてパニックになるという俚諺です。
人が、数は少なくても一致したことを信じ易いということを示すもう一つの例として、次のものを考えてみます。
「いまあなたが、A案とB案のいずれかを決めなければならないとする。
参考のため、何人かの意見を訊いてみる。
3人に尋ねて3人ともA案の支持を得た場合と、10人に尋ねて7人のA案の支持を得た場合とを比べて、
どちらの場合の方がA案支持の確信を強めるか。」
ほとんどの人は、3人一致の方により深い確信を感じます。
しかし、これは統計的には根拠のないことなのです。
ある人が確実に正しい意見を述べることが分かっていれば、その人の意見のみを訊けばよろしい。
多くの人に尋ねるのは、それらの人々の意見が必ずしも正しいとはあらかじめ分からないからです。
3人の意見具申者が実はAB案の良否の判定力を持たない、すなわち彼らの意見はちょうどコインを投げてその裏表で決める程度の信憑性しかない、と仮定しましょう。
そのとき、たまたまA案をよしとする3人の意見の一致は1÷23=1/8で起きます。
同様に、10人中7人の意見の一致の確率は、確率論によれば0.117で、これは1/8に極めて近いものです。
すなわち、確率的には両方のケースは同等に起こり得るのです。しかし、人は直感的に3人の一致の方に信頼を置きます。
すなわち、自分の周りに起きたたまたま一致した出来事に基づき、自分のものの見方を形作っていきます。
そしてその後は、この見方に沿ってものごとを解釈していくのです。
このように、人は偏見の固まりともいえるのです。
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気付きへの目の付け所 シリーズ(4)
[2] 感覚について
我々は五感を通して外界で起こったことを知り、それが真実であると思います。
しかしながら、人の感覚に万全の信頼を置いてもよいものでしょうか。
我々が見たり触れたりして得た印象は、真実そのものを忠実に反映したものでしょうか。
われわれは、地球は動いていると教えられています。
しかし、私は自分の感覚では地球が動いているとは感じられません。どう見ても、空のほうが動いています。
実は、人の五感は‘真実’を知るためにあるものではありません。
人に限らず一般に、動物の感覚は、自分が生き延びるために必要なことを知るための道具です。
したがって、感覚として得られるものは、その目的に沿った情報が選択され、それが入ってくるのです。
すなわち、感覚にはそれぞれいろいろな癖があります。
以下に、錯覚と呼ばれるものについて、視覚についてのみ挙げておきましょう。
▅ 目
目の錯覚は、非常に多くのものが研究されています。
図(a)は、ミューラー=リエルの錯視と呼ばれているものです。線分は同じ長さであるが、何度見ても片方が長く感じます。
目で見て得られた情報は、見たものそのものではなく、経験で補正され意味を解釈された後のものです。
これが、錯視を起こすのです。
視覚の情報処理を行うときに用いられたある解釈は以後固定されてしまいます。
すなわち、ある図が見方によりいくつかに解釈され得るとき、1つの解釈を取ると他の解釈によるものは見えなくなります。
図(c)は、白い花瓶とも見えるし、黒で描かれた2人の横顔とも見えます。
しかし、その2つの見方が同時に見えることはないのです。
図(d)は、美しい娘さんが向う側をむいているとも見えるし、鼻の大きい老婆が下を見ているようにも見えます。
(a)ミューラー・リエル (b)カニッツァの3角形
図(e)は、「隠し絵」です。単なるいくつかの模様としか見えませんが、これをコザック騎兵とみる人もいます。
一度騎兵と見る枠組みができると、後はすぐそのように見えてきます。
図(f)は何に見えますか。
(e)隠し絵 (f)隠し絵
人は一度に2つ以上の見方はできないことを示す例として、つぎのような話しがあります。
むかし、都に屈強な武士が主人に仕えていました。
その武士は、あろうことか主人の奥方に一目見ただけで勝手に惚れ込んでしまい、考え込む日々が続きました。
募る心に抗しきれず、ついに女を力ずくでさらって逃亡し、
追手を逃れられないと悟った後も恋する女を離さないためその首を切り、さらに逃げ続けました。
ある日、恋しい女の顔を見ようと袋を覗くと、そこには蛆がいっぱいの髑髏がありました。
それからは、武士はあれほど恋しかった美しい女の昔の顔がどうしても思い出せなく、世の無常を感じ仏門に入ったとのことです。
この話しはどこかで聞いたものであるが、‘今昔物語’にも‘宇治拾遺物語’にも見当たらず、私にはいまのところ出所が分かりません。
いずれにせよ、初恋の人の美しい思い出を大切にするなら、その人に会わない方がよいかも知れません。
合ってがっかりするのも、それも人生の一コマか。