目からウロコ シリーズ
目を凝らせば
人の意識や目は、動くものに注意するようにできています。変わるものには自分にとり危険な要素が多いからでしょう。
したがって、変わらないものは慣れてしまい、やがてそれに気も付かなくなります。
我々が出会うほとんどのものは日頃慣れ親しんだものなので、そこにあるかもしれない重要な意味をほとんど見過ごして仕舞います。
たまには立ち止まり,小さなことを目を凝らしてよく見てみましょう。意外な発見につながるかもしれません。
“神は細部に宿る”という言葉もあります。
このシリーズでは、日頃は気にも留めないことを、意識的に目を凝らして眺めてみます。
偶然の一致 | 一掬いの水 | カンマの打ち方 | 3囚人問題 |
ゆで卵とスクランブルエッグ | 急所 | 混沌と秩序 | |
めったに起こらないと思いこんでいたことが実際起きたとき、われわれはそれを”偶然”と呼びます。偶然には、その出来事の生起が珍しいものという
響きが込められています。実は、我々が珍しいと思い込んでいるある種の事柄は、全くよく起こる事柄なのです。
しかし直観的には、。どうしても珍しいとしか思えません
この稿は、このようなことについて論じます。
いま、ある会合で n 人集まっているとします。2人以上の誕生日が偶然に同じであることが起こりえます。
人数 n が大きければ大きいほど」、誕生日の重なる確率は高くなるのは当然です。下図は、何人かの集団のメンバーのそれぞれの誕生日を描いたものです。
偶然に誕生日の一致が起きました。
ここで、人数 n がいくらであれば2人の誕生日が重なるという事象の起きる確率が 0.5 を超えるか、その n を求めよという問題を考えましょう。
誕生日の分布はランダムとみなします。
すると、この問題は n 個のボールを m=365 の箱にランダムに入れるとき、重複が生じる確率を計算する問題となります。
n個のボールのそれぞれにおいて、それを入れる箱をランダムに選ぶとき、いずれの箱にもボールが重複しない確率 q は次のように考えます。
まず、最初の1つは決して重複しません。2つ目のボールは、最初の場所以外に落ちればよいので、重複しない確率は、
q = 1*(1-1/365)
おなじく、3つ目のボールが重複しない確率は、
q = 1*(1-1/365)*(1-2/365)
n個目のボールが重複しない確率は、
q = 1*(1-1/365)*(1-2/365)*...(1-(n-1)/365)
重複する確率 p は 1-q であり、この値が 0.5 を最初に超える n が求めるものです。
これを計算すると、n = 23 となりました。誕生日の問題に戻せば、23人いればその中に誕生日の同じ組がある確率がちょうど 0.5 なのです。
23 という数字は直観としては小さいように感じませんか。ちなみに、n = 30であれば誕生日が重複する確率は約 0.7 です。
シミュレーションプログラムを作って、いろいろと調べてみました。重複数を3,4,5とし、何人いればその重複の確率が 0.5 を超えるかの
シミュレーション結果を記しておきます。
誕生日の重複数 3
88人 発生確率0.5
100人 0.65
130人 0.89
誕生日の重複数 4
187人 発生確率0.5
220人 0.73
250人 0.86
誕生日の重複数 5
313人 発生確率0.5
365人 0.74
400人 0.86
誕生日の重複度 3 の100人の項を見てください。つぎのような皆を驚かすパフォーマンスができます。
100人のパーテイーであなたは何かひらめいたようなジェスチャーをして、
”このなかに3人の同じ誕生日の人が見えた”
といえば,その御託宣は65%の確率で当たるのです。
また、400人もいれば5人の重複の確率は85%を超えるのです。
この結果は直観的ではありません。
▅ 理論的考察
この問題を一般化して理論的に論じれば、次のようになります。
問題
「m個の箱にn個のボールをランダムに投げ入れる。k個の重複という現象が起きる確率が指定した確率 p を超えるに必要なボールの個数 n を求めよ」
m個の箱それぞれが自分を中心に見れば、n 個ランダムに投げたボールが自分に入る数の平均は λ=n/m です。
自分にちょうど x 個入る確率は、平均λのポアソン分布に従います。
任意の箱に入るボールの数が(k-1)以下である確率 q は、
です。これが m 個あるすべての箱で起きる確率は、q**m です。したがって、k個以上の重複の発生が指定した確率 p を超えるに必要な n は、
を満たす最小の n の値です。次に m=365, p=0.5として、重複数 k といくつかの n に対する q**m の計算値を示しましょう。
上のリストは指定した重複数 k に対し n を適当に設定して、λ=n/m としq を算出して q**m を計算し、これが0.5を切ったところを求めたものです(赤丸で囲んだ数値)。
確率 0.5で誕生日の重複 3 が起きる人数は n=88人、重複4では n=187人、重複 5では n=313人です。
いずれも、シミュレーションと一致していました。シミュレーションもこのような微妙な数値を分別できるとは面白いことです。
1000個の箱に38個のボールをランダムに投げ入れるとき、重複が生じる確率は0.5です。また、ボールが 70もあれば重複の確率が 0.9 です。
この数値は皆さんの直感に合いますか。驚きではないですか。
箱数mが大きいとして、2個(k=2)の重複の確率が指定した p となるようなボール数 n についての定式化を考えます。
m は既知で n はこれから求めるものです。λ=n/m として、(1)式から k=2 として q は次のように表わせます。
なお、この時点でλは小さい値で未知のものです。
p=0.5 の場合は、n=1.177Root(n) となります。
m が1000以上では、この近似式は (2)式より求める厳密解と正確に一致しました。
(3)式から、直感になじまない不思議なことが分かります。たとえ話で述べましょう。
1万の野ウサギの巣穴があり、n匹の野ウサギが猟犬に追われその1万の巣穴に各々手あたりしだいに逃げ込んだとします。
たまたま2匹以上が同じ巣穴に逃げ込むことは野ウサギの数 n が多いほどありそうです。
このようなことが生じる確率が0.5を超える野ウサギの数 n は、式(3)より、
とでます。1万の巣穴にたった118匹がでたらめに隠れるとき、偶然にかち合うことが0.5で起きるのです。
実際のシミュレーションを示しましょう。なお(3)式は近似式で、厳密には(2)式から計算し、必要な n は119匹でした
巣穴のかち合いがほぼ確実(たとえば確率0.9)に起こるに必要な数は 217匹です。10000に対し217匹で、ダブリが 90% で起きるのです。
巣穴数 mを100万とすると、わずか n = 1178匹 で逃げた巣穴でかち合うことが 0.5 の確率で起きるのです。
100万に対して 1178 すなわち 0.118% しかいない数で偶然にかち合うことが 0.5 の確率で起きます。
皆様の直感に合いますか。
100万に区切られた戦場のスポットに1200名の兵士が各々脈絡なく攻撃しました。
このとき、たまたま同じ区域が重複して攻撃されるという不運なことが起きる確率は0.5を超えます。
100万からみればたった0.12%の数でも、重複は起きるのです。偶然は意外と起こりやすいものなのです。
一口分の水にすべて印をつける。それを海に流し十分かき混ぜて一口分を
手に掬い取る。元の水の分子は何個ぐらい含まれているか。(思考実験)
分子の数は非常に多い。水の場合H2Oの分子量は1×2+16=18ですから、一口を18グラムとすると、
その一口に含まれる水の分子の数は 6×1023(アボガドロ数)です。
この18グラムの水は、全地球の水の量のどれくらいの比になるかを概算してみます。
地球の半径をr(6370km)とします。すると、球の面積は 4πr2です。
いま大雑把に地球の表面はすべて海として、その深さを1000mとしましよう。
すると、水の量Vは、
V=4πr2×1kiro
これをcmを単位として表すと、
V=4π(6370×105)2×105 = 5×1023 cm3
一方、一口の水の重さを18グラムの分子数はアボガドロ数6×1023です。
すなわち、一口に含まれていた全部の分子に赤色を付けたとすると、海の容量5×1023cm3に6×1023個の赤色分子がバラまかれていることになります。
これより、手に掬った海水の1ccに含まれる赤色分子は、
6×1023/5×1023=1.2
なんと、約1個です。
いま1ccに含まれる赤色粒子の平均を1.2個とすれば、1口18cc中の平均は約20個です。
この1口中に印をつけた粒子が一つもないという確率を計算すると、10億分の2でした。
こう考えると、その昔インドでお釈迦様がお飲みになった水の1粒を、今私がコップで飲んでいる可能性はほとんど確実です。
悠久なご縁を感じているところです。
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カンマの打ち方
我々は日頃、数量を表す数値をごく自然に使っています。
次の数字を読んでみましょう。
1,234
これは誰でもすぐ読めます。では、次はどうでしょう。
1,234,567
123万4千567。これもまあよく見かける範囲ですから、読み慣れています。では次はどうですか。
1,234,567,889,556
これは、しばらく考えなければ分かりません。なぜでしょう。わざわざ‘カンマ’を打っているのに、少しも読みやすくない。
同じ数字に対し、‘カンマ’を次のように4桁ごとに打ち変えてみると、分かりやすくなります。
1,2345,6788,9556 1兆2345億6788万9556.
なぜでしょう。
それは、日本の数字の単位は(昔中国の表記法をそのまま輸入して)4桁ごとに新しい単位となるからです。
したがって、4桁ごとに区切ってあれば、自然に読めます。欧米の数字の単位は3桁であるので、3桁ごとの区切りは欧米での位取りを想定したものです。
日本では、数字を3桁で区切ることは具合が悪いはずです。なぜこのような非効率的なことが問題とならないのでしょう。
それは、明治の文明開化と共に輸入された西洋数字表記法に西洋のものは絶対に正しいとしてなんら疑問を持たない事とともに、
この表記法に日本人が器用に対応しているからです。
ここで、いままで自然に思えた事柄に対し一つの切り口が生じました。
“,”の打ち方で分かり易さが非常に増すという事を、すこし拡張して考えてみましょう。
“,”は一つの表記法です。すなわち、表記法は分かりやすさに大いに関連する大切な事柄であることに気付きます。
これは、“,”の打ち方という細部から取り出した大きな気づきです。
ここで、数字の表記法に目を向けると、いまわれわれが慣れ親しんでいる10進表記の他に、次のようなものがあります。
漢字 弐拾参萬五千百五十五
ローマ数字 XXXVII
60進法 時計 角度
12進法 ポンド
ニューギニアの奥地では、数字に一つ一つ固有名詞が付けられ、最大は27であるということを聞いた覚えがあります。
数字自体の表記法一つをとっても、漢字やローマ数字を用いたのでは数学は発展しそうにありません。
60進法はシュメールやバビロニアで使われた表記法ですが、約数(2,3,4,5,6,10,12,15,20,30)が非常に多く分割に便利であったと考えられています。
現在でも、角度および時計の表記法に残っています。
我々の使っている10進法には 0 という記号がありますが、これは表記法上の大発明なのです。
インドに由来して、‘無いもの’の‘存在’である‘無’の意識と関係しているといわれています。
このようなことを手繰り寄せながら考えることにより、表記法すなわち‘物事を表現する形式’の重要性というさらに大きな気づきにたどり着きました。
数学の分野で表現形式といえば、座標系の大発明が思い浮かびます。
デカルトは、位置の表現に座標という画期的な方法をあみだしました。
これにより、厳密な関数表現が可能になり数学がどれほど便利になったか測り知れません。
この延長線上に、ニュートンとライプニッツの微分記号の表し方が関連事項として思い出されます。
両者は同時に微分を発見したのですが、それを表現する表記法は違っていました。ニュートンは、 y'
数学的にはライプニッツ流の方が厳密で発展性のあるものであり、ニュートン流を採用したイギリスはこの表記法の故に数学の発展がかなり遅れたといわれています。
物事を表現する表記法が、その後の展開の様子に大きく影響したのです。
表記法は、その機能をもう少し拡大すれば物事を表現する形式、形態につながります。
社会的な事柄に目を向ければ、多くの国々のそれぞれの文化、風習、もう少し小さくは企業などの個々のしきたり、
あるいはもっと身近には家庭ごとの規範なども同じ流れの上にあるものです。
いずれにおいても、その流れの中では,決められたある型に沿って身を処していき、その形式の存在自体は意識に上がりません。
強く確立した形式の中にあれば、それに沿った行動には違和感は感じられません。
しかし、冷静な目から見れば大問題を抱えているかもしれません。したがって、普通では当然と思いがちなものにも、たまには見つめなおすことは有益なのです。
この項は、カンマの打ち方というまことに小さき事柄をとっかかりに、“形式がものごとの発展に及ぼす影響”とでもいうべき重要な視点にたどり着きました。
このような観点は、なにか新しい形式、形態、組織、制度とかを考えるときの重要な参考になるでしょう。
いま、人類にとって根本的な大問題である地球温暖化にたいしても、これを人類の自然に対する対応形式自体の変化を促す地球からの信号と受け止め、
父系的な男性原理から母系的原理への転換の必要性を指摘する論者もいます。
ABC 3人の囚人のうち1人は釈放され2人は明日処刑されことになりました。
Aは看守に“BC2人のうち一人は処刑されるのであるから処刑される人の名前を教えてくれ”と頼み、その結果Bが処刑されることを知りました。
そして,後は2人のうち一人が助かるのであるから、自分が生き延びる確率は1/2になったと喜びました。
これは、正しい推論でしょうか?
二人のうち一人確定したのだから自分のチャンスは増えるとも考えられるし,
一方、一人は助からないのだから一人の名前が挙げられることは当たり前の価値のない情報のようにも思えるし、迷うところです。
これを理屈っぽく考えてみましょう。
Aの助かることをAと記し、確率をP(A) とかきましょう。Dを看守の答えとします。
何も情報がないとき、
P(A)=P(B)=P(C)=1/3
です。看守がBと答える事象をDBと記し、その確率をP(DB)としましょう。処刑を
釈放を として看守の答えと背後の状況を図にすると、
次のようになります。
看守がBと答えること(赤枠)の起こる確率は、
Aが真(Aが助かる)で1/2でBが選ばれた
Bが真(Bが助かる)なら確率 0
Cが真(Cが助かる)なら確率 1
すなわち、
これより、看守の答えBを知ってAの助かる確率は、
=Aが助かってBと知らされる確率 / Bと知らされる確率
すなわち、看守の情報を得た後もAの生き残る確率は1/3であり、看守の情報はなんら役に立っていません。
看守の情報を数値化すれば確率1/2で起こることであり、これは1/3で自分が助かる場合にBが選ばれる確率(1/2)と同じなのです。
▅ 囚人問題の拡張
囚人問題を拡張して、n人の内一人が助かるとし、看守に助からないk人( k<=n-2 )を教えてもらうときを考えましょう。
その情報を知った時、私の助かる確率は知らない時の1/nから 1/(n-k) になるのでしょうか。
すなわち、自分が助かる確率は、 k人の名を教えてもらうことにより上がるのでしょうか。
この問いにつき、詳しく解析しました。詳細は、省きますが、看守より(n-2)以下の何人の助からない人の情報を得ても、自分の助かる確率は変わりません。
直観的ではないですが、そうなのです。
声明が長々と述べられてはいるが、述べられた内容の中身は全くないこともあるのです。
そういえば、昔私が中学生のころ、美術の試験で次のような問題が出ました。
「ルノアールについて述べよ」
これに対しある目端の利く学生が、次のように答えました。
「欧米の画家で、有名な作品をたくさん残した」
美術の試験ですから、名前からして欧米の画家で有名な人に違いありません。
有効な情報は何もない見事な解答として今でも覚えています。
同じような内容の答弁が、毎日国会で聞かれます。
「その件につきましては適宜調査し、前向きに対処いたす所存です」
含む内容の無さという面では、看守の答えに似ています。
見慣れた朝の光景ですが、気を付けて眺めると卵をゆでるのは意外と時間がかかりますね。
ゆうに10分ぐらいは火にかけているのではないでしょうか。そういうもんだと気に留めないあなたへは、真実は細部に宿るという言葉を贈ります。
たまには、小さいものを凝視するのもよいでしょう。
改めて、卵料理はスクランブルにすればすぐ(数秒で)出来上がるのに、ゆでるのはどうしてかなりの時間がかかるのでしょうか?
注意すればわかることですが、両者では卵への熱の伝わり方が違いますね。
ゆで卵では温めるのは外のみで、熱は内に向かって卵本体を伝って間接的に伝わっていきます。
これに対しスクランブルでは、熱はかき混ぜられた卵の各部分にフライパンから直接的に伝えられます。
これが、2つの方式における熱の伝わり方の違いの核心です。
ここで、熱源が離れたところにあり、そこからものを伝って熱が流れてくるときのメカニズム(熱伝導)を考えてみます。
熱の流れは、自分の点の温度は周囲の温度の平均であるように流れます。
次の図は、針金に熱を与えそれが時間とともに伝わっていく様子を正確に解き、視覚化したものです。
初期に与えた熱分布が赤で示されています。熱伝達の変化が、時間軸に沿って描かれています。
なかなか伝わらないことが見て取れます。最初に針金のある部分に与えた熱が時間がたってもなかなか横に伝わっていません。
熱は遠くに伝わるには時間がかかることに加えて、卵では材料自体の熱の伝わり度合いの悪さの要素が重なり、伝わり方は非常に遅くなります。
これが、ゆで卵の時間のかかる原因です。
しかし、スクランブルにすれば伝達が熱源と直なので、卵全体に短時間で熱が伝わるのです。
さて話は変わりますが、日本では“気配り”や“空気を読む”ことが社会的常識であり、これに欠けることは困ったことになります。
これに関し、面白い小話を思い出しました。
「国際航路の船が難破し脱出するのに小舟の数が足りません。船長は小舟を子どもと女子に譲るべく、男性を説得せねばなりません。
船長は、次のように説得しました。
英国人に対しては、“君はジェントルマンだろう”。彼は納得しました。
ドイツ人に対しては、“これは規則です”。彼は納得しました。
アメリカ人に対しては、“君は英雄になりたくないか”。彼は納得しました、
日本人に対しては、“皆さんそうなさいます”。彼は納得しました。 」
この“空気を読む”ことを式で表現すると、自分は周囲の平均ということであり、熱伝導のメカニズムと本質的に同じことが分かります。
従って、このような行動様式の下では、すでに熱伝導でみたが如く、外界の変化が全体に伝わるのに非常に時間がかかるのです。
しかも、それらの変化は局所的に性格が異なることでしょう。
環境の激しい変化に対し、従来のような大きな組織による大きな時間遅れを伴った外部への一律な対応は現実的ではなくなります。
従来とは社会のパラダイムが変質したのではないでしょうか。
これからは、間断なく起こってくる変化に対し直面する個々の部分でそれぞれ対応せざるを得ません。
全体の主な機能は、従来の一律な統制から部分間の変化対応への調整になるのではないでしょうか。
日本の文化である互いに他を思いやる美しい性質は残しつつ、他と違った行動への許容度を高める必要性が感じられます。
ゆで卵というまことに小さいこと(細部)を注意して眺め、そこから感知し得る広い世界を記してみました。
物事において、どうしても目につくのは表に現れている直接の動きでしょう。
しかしながら、その裏にはそれを支えている隠れたる急所とでもいうべきものがあります。
ずっと昔、防衛関係の方から聞いた話ですが、太平洋戦争においてアメリカが日本を初めて空から攻撃した対象は、
ベアリング工場であったとのこと。そして、その存在は当の日本の関係者もよく知らなかったとのことです。
確かにベアリングの供給が止まれば、機械部品のすべてが動かなくなります。
2次大戦における英国のドイツ潜水艦への対処では、直接の攻撃もさることながら、
戦略的にはその修理工場の攻撃が一番有効と結論付けられました。
工場が壊され修理が長引けば、潜水艦の全体としての稼働が非常に悪くなるのです。
さて、いま時代は終わりの見えない変化の激流となりました。
その目まぐるしく移ろう中で隠れたる急所は何でしょうか。
それは、教育です。考えることを主体とする教育であります。その教育の重要性をしめす2つの逸話を述べましょう。
時は約160年前、明治維新に伴う混乱のなかで北越戦争が起きました。
河合継之助率いる長岡藩は敗退し、石高を7万4千石から2万4千石に減らされ、大変な窮乏に陥りました。
このとき支藩の三根山藩から米百俵が送られてきました。
家老小林虎三郎は、米を直ちに分配せよとの家臣の要求を抑えて、
“百俵の米も食えば直ちになくなるが、
教育に充てれば明日の一万石百万俵になる“
として、これを売り払って資金にし学校を建てました。
もう一つは、ユダヤの話です。
ユダヤ戦記に書かれているAC70年ユダヤ人がエルサレムの城壁にこもってローマに反抗した時のことです。
ヨナハンは民族が生き延びるにはローマの将軍と合うしかないと結論し、大僧正が死んだという噂を撒いてなんとか城外に出ました。
そして包囲軍の司令官に会い“あなたは近く次のローマの皇帝になる”と予言しました。
果たしてその予言が成就した時、願いを一つかなえてやろうという申し出に「学校を一つ破壊しないでくれ」と願いました。
司令官が皇帝としてエルサレムを去るとき“学校だけは残せ”と命令し、この学校の学者がユダヤの伝統を守ったとのことです。
教育は要です。全ての基を訪ねれば、それは教育です。
神話は、人の深層意識レベルの直感の表現という解釈があります。
たしかに、多くの地域において国造りの物語は同じようなパターンを持つようです。
すなわち、はじめはどろどろと形を成さない混乱状態があり、これに何か偉大なものの力が加わり次第に秩序に向かうという筋書きです。
ギリシャ神話によればこの宇宙の成り立ちを説明して、
まず空隙(カオス)が生まれ
つぎに大地(ガイヤ)が生まれ
さらに次々と天(ウラノス)、海(ポントス)とその誕生が続く
とあります。
中国においても、
初め天地が一体となった混沌があり、その天地が分かれて世界が生まれる
と記されています。
さてここで、次のような問いを立ち上げてみます。
秩序は混沌(カオス)の中に本質的に含まれているのか
この問いをかなり単純化して、カオスをランダムな状態と考えてみましょう。
どこにどのように生じるかわからないという意味ではカオスはランダムに似ているでしょう。次の図は平面上にランダムに点を打ったものです。
ランダムな点 n=100 ランダムな点 n=400
ランダムには何も規則がないと思いがちですが、違うのです。
次の図は、おなじく平面上にランダムに点を打ち、それを等面積に区分けしたものです。
そして、区画に含まれる点の数の頻度をグラフ(青の棒で表示)にしました。グラフにおいて赤で描かれている線はポアソン分布です。
点数=100 100区間 点数400 400区間
区間的あるいは時間的にランダムに生じるものを区間的あるいは時間的に区切ってその間に生じる数に着目すれば、それはポアソン分布するのです。
次に視点を変えて、0から1の間に一様に分布する変数uを考えます。
そして、この変数uをある指定した数値 p と比較して、事象Aの生起の有無をつぎのように決めるとします。
このように決めるとき、Aは確率 pで発生するかあるいは何も起こらないかの確率事象となります。
このような事象Aの生起の有無をn回調べるとき、Aが起きる回数kは2項分布に従います。
2項分布
すなわち、ランダムの中からポアソン分布も2項分布も取り出すことが出来るのです。
つぎに、どのような分布も重ね合わせれば(確率変数の和をとれば)正規分布に近づくという性質(中心極限定理)から、
いずれの分布もその平均値が大きくなった分布の形は正規分布に近づきます。赤線は正規分布を描いたものです。
平均20のポアソン分布 平均20の2項分布(p=0.5)
すなわち、ランダムからあらゆる分布が取り出せるのです。その関連をまとめて描いておきましょう。
カオスや混沌がランダムにたとえることが出来るのであれば、国造り神話にあるカオスからの世界や秩序の創生は
ランダムから美しい分布が取り出せることに似ていないでしょうか。ところで、それを取り出したのは誰でしょうか?