ふくろう先生の独り言 シリーズ


  経験を通して学んだことは、心に刻み込まれて残ります。
しかし人生は短く、多くの大切なものを経験のみから学ぶには時間が足りません。
そこで己の至らざるを知るものは、先人の経験内容を普遍化したもの(すなわち知恵)を、
予め(すなわち経験により苦い思いを以て知る前に)学ぶことを考えます。


聞くところによると、ふくろう先生は長い年月を経ていろいろ学ばれたようで、
気が向けば教えを乞う人にときどきつぶやかれます。





ふくろう先生の独り言 シリーズ 内容一覧

 流れ星への願い  戦略とは  情報と知恵の価値  偏見のメカニズム
 賭博師の賭け  落ち穂拾い    
       
       
       




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ふくろう先生の独り言 : 流れ星への願い  


 わしは老いてなお知ることはわずかであり人に語るべきことはあまり多くはない。
しかしながら、次のことは伝え残すに値するように思えるので、慎みを持ってここに記す次第である。



難問に対する回答をパッとした閃きで見出した例の一番古典的なものは、アルキメデスの王冠の話しじゃな。

それは次のような話じゃ。

 「その昔、アルキメデスの保護者であるシラクサの君主ヒエロは、他国からの貢ぎ物の王冠が純金ではないのではと疑っていた。
   そして、この真偽の調査をアルキメデスに命じた。王冠を溶かして正方形にすれば比重が分かり、金かどうかの真偽がはっきりする。
   しかし、贈り物を溶かすわけにはいかん。

   ある日風呂に入っているとき、体をいれる度に水があふれ出るいつも見かける風景を何気なくみていた。
   そして、突然、あふれる水は自分の体積に等しいことに気がついた。
   すなわち、王冠を壊すことなくその体積を測る方法に気付いたということじゃ。」


このとき、喜びのあまり裸のまま‘ユーリカ(発見した)’と叫びながら表に飛び出したことは有名じゃな。

多くの閃きの例を調べてそれが起きたときの状況を整理すると、いくつかの特徴が浮び上がってくるのー。

第1に、強烈な問題意識の存在じゃ。

‘これは何なのだ’と常に考え続けている状態じゃな。

問題の存在すら分からない混沌とした状況であっても、解決すべきものがあるに違いないとする一種の信念じゃな。

第2には、リラックスした状態じゃ。

これは第1に掲げたものと矛盾するようにみえるが、意識上で、当面の問題に関係しない楽しいことに従事しているリラックス状態が必要なのじゃ。

緊張が解けた状況の下で、意識に強く刷り込まれた問題意識が無意識領域に持ち込まれ、そこで解の候補が試行錯誤的に試されるのじゃろうの。

それがたまたま良いアイデアであったとき、閃いたというのじゃな。


 
よい閃きは、何がなんでも解答を得ねばならないというような圧力の下では、かえって得られんの。

これを示す、次のようなニワトリの実験がある。

「飢えたニワトリと餌の間に金網を置く。
 ニワトリは餌が金網のそばであればあるほど、また、飢えの度合いが大であればあるほど、金網に直接ぶつかって失敗を繰り返し、
 金網を迂回することは思い付かない。」

        

全能の神からみれば、人間の知恵もニワトリ程度にしか映らんじゃろう。

我々が血眼になって努力する有り様は、ちょうどニワトリが金網に体当たりを繰り返すのに似ているかもしれんの。

 第3の特徴は、閃きの多い人はよく感動することじゃ。

よく驚く人、何を見ても素直に心を動かす人、何度見た夕日にもその本来の美しさを感じる人などは、

斬新なアイデアを出す人に多く見られるぞ。

感動とは、意識上に構成された心の固い枠組みが揺り動かされることじゃが、このとき従来とは異なった考えがでるんじゃ。

  以上まとめれば、よい閃きに至る条件として、次のことがいえる。

▅ 意識上での問題意識の強い刷り込み

▅ リラックスした状態の無意識下で行なう案の試行錯誤的結合

▅ 何に対しても素直に心を動かしやすい性質

言い伝えとして、‘流星に願いをかければ叶えられる’というのがある。

流星がみえるのは一瞬じゃ。

その短い間にもすぐさま自分の願いが述べられるのは、その願いがよほど強く、かつ、絶え間なく心の中で保持されたものであることじゃ。

すなわち、その人の心は、外で起こるあらゆる事を自分の願望と結び付けて利用する準備が整っているということじゃな。

そのような願いは、かなえられる確率が高いのじゃ。

流れ星の言い伝えは、本当なのです。


       

‘偶然は準備の整った実験室を好む’という言葉がある。

これも、強く願って待ち構えるところによい発見がなされやすいことを表したものじゃな。

想いが大切なんじゃ。

以上のようにつぶやかれて、ふくろう先生は眠りに入られました。


      

花の精

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ふくろう先生の独り言 : 戦略と                    


 わしは老いてなお知ることはわずかであり人に語るべきことはあまり多くはない。
しかしながら、次のことは伝え残すに値するように思えるので、慎みを持ってここに記す次第である。



それは、かって多くの政治家がことに当たって決然たる“お誓いの言葉”を述べ、

気が付けばそれがいつも淡雪のごとく消えていたことに思いを致したとき、頭に浮かんだことなんじゃ。

 皆は、物事の遂行にはまず立派な方針、指針、哲学などの旗印が要り、この旗印の作成が要点だと思うとるじゃろう。

旗印を掲げたとき、少しは何かしでかしたような気分になるもんじゃ。


しかしの、わしはいつも言うとるんじゃ。そんなものはお前さんが瞼をゆっくり 3回閉じて開く間にわしが作って見せる。

旗を掲げるのは簡単じゃ。それを行うのが大変なのじゃ。

これに関し、むかし聞いた次のような話を思い出す。

「日本の高度成長華やかなりしころ、ある南洋の島の酋長が日本に視察にやってきた。
  色々感心した中で酋長が最もうらやましく思ったことは、日本中どこに行っても蛇口をひねれば水が出ることであった。
  そこでその酋長は島民の幸福を願って、大量の蛇口を買って帰ったことのこと。」

本当にあったことかどうかはさておいても、面白い逸話じゃな。

蛇口をひねれば水が出るためにはその前に隠れた大掛かりな準備が要る。

川から水を引いて水をため、浄化し、圧力をかけて送り出し、水道管を敷設するという膨大な作業じゃな。

蛇口をひねる前に、そのための前もっての準備は膨大な費用と時間がかかるのー。

 

前置きはこのくらいにして、さて世の騒然を映してか、よく戦略という言葉を聞くが戦略とは一体何かの。

わしゃ次のように実感するのー。

  “戦略とは、将来の戦いに備えてその時の状況・環境を予測し、

   その戦いに有利になるように今からおこなう準備のことを指す”

戦いが始まれば、使えるものはいまその時にあるもののみじゃ。

戦いの様相に合わせた前々からの準備があれば、その戦いに有利なのは明らかじゃな。

さて、ここで大切なことを述べよう。

わしゃ戦略とは将来の予測に対する準備だと述べた。

将来に対する準備じゃから、いま目の前にある問題に対するものではないのー。

すなわち、今の時点ではその準備作業は不要不急のものにみえる。

いまやるべき急を要することがあるではないかという意見に押し切られやすいものじゃ。


真の戦略は今は無駄に見えるのじゃ。

全会一致で支持されるような案はすでに手遅れの案じゃな。
大反対があるのが当然なのじゃ。

戦略とは、遥か先の時の流れに対処する遂行能力の前もっての準備じゃからの。


 関連しそうな話を二つ掲げておこう。

明治維新に伴う混乱のなかで、北越戦争が起きた。
河合継之助率いる長岡藩は敗退し、石高を7万4千石から2万4千石に減らされ、大変な窮乏に陥った。
このとき支藩の三根山藩から米百俵が送られてきた。
家老小林虎三郎は、直ちに分配せよとの家臣の轟々たる要求の声を抑えて、

 “百俵の米も食えば直ちになくなるが、

  教育に充てれば明日の一万石百万俵になる“

として、これを売り払って資金にし学校を建てた。

 もう一つは、中国の孫子にある“名将には名がない”という言葉じゃ。

通常名将とは、有名な激戦に勝った将を指す。

しかし、先見の明があり余りに準備が密かに完璧に整った戦の場合、その勝敗の行方は後から見れば明らかじゃ。

そのような戦いの将は名が残らん。“名将には名がない”とはこのようなことを指すのじゃろう。

味のある言葉じゃ。


ここまでつぶやかれて、ふくろう先生は目を閉じられました。


    




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ふくろう先生の独り言   : 情報と知恵の価値

           
       

 わしは老いてなお知ることはわずかであり人に語るべきことはあまり多くはない。
しかしながら、次のことは伝え残すに値するように思えるので、慎みを持ってここに記す次第である。

          
        

 それはかって検索(探すものがどこにあるか調べること)の効率について考えたとき頭に浮かんだことなんじゃ。

世の中には一を聞いて十を知る英才もいれば、何度教えても学ばない御仁も居る。

ここで、一を聞いて(すなわち、一つの経験あるいは1回の調査から得た情報を理解して)これをその後の行動を有利に

するために使うときの使い方の効率について考えてみたんじゃ。

考えの筋道を明らかにするため次のような問題の設定をし、これを通して探索効率を定量的に考察してみようかの。


問題の記述


「n個のデータが書き込まれたファイルがある。データの数 n は分かっており、
このファイルの中に探したい指定データ a があるがそれがどこにあるか知りたい。」

 


求めるデータの探し方には、検索のためのデータの準備の仕方も含めて、効率的なものとそうでないものとがありえるよのー。

その効率の測定じゃが、見つけ出すまでの探索の回数で測ることとしよう。

そこで、一つの記号 T(n) を導入し、次のような意味としよう。

      T(n) : ファイルにあるn個のデータから指定のデータaを見つけ出すのに

          必要な探索の回数

       (指定のデータaはn個の中にある場合に限定する)

 

さてこれから、賢くないやり方のほうから順にとりあげ、その効率について考えるとしようかの。

 

手当たり次第に調べる方法

  まず、どう見ても賢くない方法は、n個のデータからでたらめに選ぶことを当たるまで繰り返す方法じゃろうの。

この方法では、指定のものを見つけるのは偶然しかない。

選んだものが偶然に指定のものと一致する確率は 1/nで、nが大きいときは偶然当たる確率は非常に小さい。

はずれた次もまた偶然を頼りにデタラメに選ぶということは、1つを選ぶことで得た情報をつぎの探索にまったく使わないことじゃ。

したがって、効率は恐ろしく悪い。たとえて言えば、経験からまったく学ばない生き方と同じじゃ。

“バカは死ななきゃ直らない”というやりかたかのー。

厳密に計算すると、n=1000のときデタラメに探して1000回以内に偶然見つかる確率は0.6321じゃ。

また、99%の確率で見つけるためには、4600回程度の運を天に任せた選択の繰り返しが必要じゃ。

 

--------理由: 読み飛ばしてもよいが理屈にうるさい人へ ------------------

データ数が n のときは、でたらめに選んで偶然当たる確率は p = 1/n じゃ。

当たらない確率は q = 1-p = 1-1/n となる。よって k 回目に当たる確率は、k-1はずれて最後に当たるのじゃから、


となるのー。そこで、n 回以内に当たる確率は


99%の確率で見つけるためには j 回必要として

データ数 n が1000の時、約 4600回の探索が要る。

 


経験の墨守

  前よりは少しよい誰にも思いつく次の方法は、ファイルのデータの任意のものを選んでそれを指定のものと比べ,

一致しなければそれを除いたものから次を選ぶことを繰り返す調べ方じゃ。

今確かめたデータは求めるものではないのだから、その情報を使いつぎの検索範囲を一つ狭めることができる。

これを続けると調べる範囲が着実に狭くなり、ついには調べる範囲が1個になり確実に見つけることができるわけじゃ。

すなわち、最大 (n-1) 回調べれば確実に見つけられる。これを式で表現すれば、次のようになるかのー。


   T(n)=1+T(n-1)
   T(1)=0


この方程式の解はT(n) = n で、これは直接代入してみればわかる。

この探索方法は、要するに一つ一つしらみつぶしに調べていく方法であり、違うと分かったものを次の探索範囲から除くという常識的なものじゃ

指定のものを見つけるまでに最大n回であり、運がよければ1回で見つかることもあるので、平均は n/2回 の検索で見つかるとみなせる

大雑把に言えば、データ数 n とおなじオーダの検索回数で見つけられる。

1回の探索から得た情報の利用という観点からいえば、この方法にはもっと工夫の余地がありそうじゃ。

経験したそのものを記憶するのみで内容の意味とか理由などを考えようとせず、ただ過去に起きた同じ事を避けようとする

愚直な反応によく似とらんかのー。



整理・構造化

  つぎは、蓄えるファイルへのデータの置き方の工夫で検索効率を桁違いにあげる方法じゃ。

説明を分かりやすくするために、データを n個の数値データとしようか。

はじめ、データはファイルにデータの生じた順に並べられている。いまデータの内容に着目して、これを値の小さい順に並べ直したとしよう。



さて、このデータを小さい順(昇順)に並べ直したファイルでの検索を考えるとしよう。

いま、検索したい指定データを a とする。探し出したいこの a は、ファイルのどこにあるか分からん。

すなわち、探索範囲はファイルの全域の n 個じゃのー。いま、この探索範囲のちょうど真中のデータの値を調べてこの数値が m であることを知ったとしよう。

すると、ファイルのデータは昇順に並んでいるので、1回のデータの調査(検索)から次のことを知ることができるんじゃ

 

       a=m   のとき   運よく見つかった

           a>m   のとき   aは真中より後ろのほうにあることが分かる

      a<m   のとき   aは真中より前のほうにあることが分かる

 

すなわち、見つからなかったときは、調べて得た情報 m と目的の a との関係により次の探索範囲は今回の半分に縮まるんじゃ。

これを2分探索法と呼んでおる。n=1000 の場合の2分探索法による探索範囲の縮まり方は、次のようになる。

 

 1000→ 500→ 250→ 125→ 63→ 32→ 16→ 8→ 4→ 2→ 1

 

探索範囲が1になれば見つかったことなので、2分探索法によれば1000のデータから10回の検索で必ず見つけることができるという訳じゃ。

一般に、n個のデータから log2(n) 回の検索でかならず目的のものへたどり着くことができる。

この効率は順次に調べる方法に比べて、桁外れによいものになっておる。

 

 2分探索法の効率の良さはじゃな、探索の対象となるデータを構造化したことによるんじゃ。

バラバラであったものを目的に沿って関連付ければ、1つの情報から非常に多くの意味を取り出すことができるということじゃ。

これが相乗的に効果を生みだす。

2分探索法の効率を式で表現すれば、次のようになるかの。

   T(n)=1+T(n/2)
   T(1)=0

   T(n)=log2(n)


------- 参考:式の導出  読み飛ばしてもよいが理屈にうるさい人へ---------

1回の探索ごとに捜索範囲は半分になる。したがってk回探索すれば範囲は n/2k である。

この長さが1になる k は

  k=log2(n)

ということじゃ。



構造化+知恵


 
 2分探索法は非常に効率的じゃが、それでもなお工夫の余地がある。

それは、データの調査位置を探索範囲の中心と決めている点じゃ。

たとえば、英語の yellow を辞書で調べる場合、2分探索では辞書の中央に位置する言葉を調べる。

しかし、 yellow は y で始まるので語数は少なく s や t などの多くの語数の後にある等の知識があれば、

当然辞書の後ろのほうの位置を調べるのが合理的なことは分かるよのー。

すなわち、知恵を動員して調べる位置の予測をするのじゃ。

検索において構造化に加えて知恵を組み込むときは、その効率はさらに上がる。

詳しい説明は省くが、次のオーダーの検索回数である。

   log2(log2(n))

この効率は驚異的で、n=2128=256×1036 のような膨大な数のデータの検索でもたった7回で見つかる。



ここで、データ数 n=100000000(1億) として、この中から指定したものを見つけ出すまでの必要な各方法ごとの検索回数を、

比較のためまとめておこうかの

 

    検索方法      検索回数

 

   手当たりしだい     460000000  :99%見つけるのに必要回数 

   経験の墨守        50000000

   整理・構造化              27

   構造化+知恵              5

  

物事の整理・構造化はlogのオーダで検索効率を上げ、これに知恵を加えれば log(log) のオーダでさらに桁はずれの検索効率向上となることが分かった。

物事の構造化や知恵の活用という知的行為と検索効率における log とが対応しているのは面白いのー。

 

手当たり次第は何も学ばないことに対応する。

経験の墨守は経験したことしか学ばないことに対応し、整理・構造化はこれまでの知見を活用するのであるから

歴史より学ぶことに対応すると考えると整理がつくかのー。

 

“愚者は経験より学び、賢者は歴史より学ぶ”とはこのことか。嗚呼。

 

以上のようにつぶやかれて、ふくろう先生は眠りに入られました。

   

        





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ふくろう先生の独り言 : 偏見のメカニズム
                 

 
 

 わしは老いてなお知ることはわずかであり人に語るべきことはあまり多くはない。
しかしながら、次のことは伝え残すに値するように思えるので、慎みを持ってここに記す次第である。

 

  “よく話せば互いに分かり合える”という楽観的な人生観もありうるが、わしの経験ではそうは思えんこともしばしばじゃった。

むかし日本の陸軍華やかなりしころに起きた反乱を扱った映画のある場面で、次のようなやり取りを妙に鮮明に覚えとるよ。

     話せばわかる

    問答無用

わしは、人は偏見の塊と思っている。偏見の形成を、わしは次のように理由付けて納得しとるんじゃ。

人は同じ出来事を前にしても、それを自分の見たいことに沿ってみてしまう。

みたいことに沿うとは、自分の慣れ親しんだものの見方・考え方に沿って出来事を解釈することじゃ。

これが偏見が出来上がる原因じゃ。説明してみようかの。

 たとえば、ある100人の集団があるとしよう。それは多数派のAグループ90人と少数派のBグループ10人より成っている。

多数派のAはBグループに対しある偏見をもっており、Bは油断のできない輩で、その50%が盗みもやりかねない連中であると思っている。

そして、自分たちについては大体正直者の集まりで、その3%程度が若干問題があると主張する。

一方、少数派のBも、Aに対しこれまでの経験を誇張した独特の意見をもっている。

少数派Bの見方に従えば、Aは大変嵩にかかったいやな連中で、その30%くらいはずるいやつである。

そして自分たちについては、中にはいけない者も1割程度いるが、大体努力家であると信じている。

 さて、この100人が連れ立って旅行に行くことになったとする。そして旅先で誰かが不用意に、“あれ、俺の財布が!”といったとしよう。

本当は自分が忘れたのかもしれない。あるいは、探せばあるのかもしれない。

しかしながら、それを聞いたとたんに、Aグループは、“だから来るんじゃなかった。どうせBの仕業だ”と思う。

同様に、Bグループはこれとはまったく反対の結論、すなわち、Aグループの犯行を確信する。

その結果、今まで自分たちが心に描いていた‘相手に対する不信感’を互いに強めるのである。

各々のグループがそのような確信にいたる道筋を説明してみようかの。


A,Bのそれぞれの言い分

 もし泥棒がいたとすると、それは悪い連中に属するはずじゃ。

Aグループの見解では、悪い連中の数は、Bに属する10人の内の50%である5人と、自分たちのAに属する90人の内の3%である2.7人である。

すなわち、合計7.7人じゃ。したがって、犯人がBグループである割合は、5/7.7となる。

これは相当高い率であり、日頃Bを疑っている率(先験確率)の50%より更に高い値じゃ。

そこで、この事件を契機に、Aグループは今まで懐いたBへの不信の念をさらに強めるのじゃ。

 一方、Bグループの見解によれば、悪い連中の数は、Aに属する90人の30%である27人と、自分たちのBに属する10人の10%である1人である。

すなわち、合計28人じゃ。したがって、このような見解を持つBグループからみると、犯人がAグループの者である割合は、27/28となる。

この値はほとんど確信に近いもので、BグループのAに対する日頃の不信感を決定付けるものじゃ。

同じ出来事の解釈が、このように違うのじゃ。


    

このように、双方のグループとも同一の出来事を自分のみたい方向に沿って解釈し、今までの見方を更に強めるのじゃ。

すなわち、互いに自分たちの偏見を強固にするのよ。さて、偏らぬとは、難しいことよ。

 

ここまで語って、ふくろう先生は目をつぶられた。



       



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賭博師の賭け                

  

 わしは老いてなお知ることはわずかであり人に語るべきことはあまり多くはない。
しかしながら、次のことは伝え残すに値するように思えるので、慎みを持ってここに記す次第である。

 

それはかって賭けの確率構造について考えたとき、頭に浮かんだことじゃった。

人生はある意味で賭けの連続であり、その結果としての運・不運の連なりじゃな。

その時々の運・不運が折り重なって、ジグザグな人生経路ができあがる。

そのジグザグ挙動の持つ本質を深く掘り下げ、運とは何かについて考えてみたんじゃ。


賭博師の賭けの問題とは

  いま、賭けを生業とするある賭博師がいるとしよう。彼は、いくらかの元手を持っており、同じだけの元手を持つ他の人に賭けを挑む。

賭けは1回ごとに運・不運により勝ち負けが決まるものとし(1回の賭けの結果を得ることを試行と呼ぶ)、

その都度賭博師と相手の間に1単位賭け金のやり取りがあるとする。

そして、どちらかの資金が尽きたらその賭けは終わり勝敗が決まる。賭けの勝敗とは、この最終的な決着を指すとする。

 

いま、1回ごとの賭けの結果としての運・不運は確率的に決まるものと単純化しよう。

ここで記号を導入して、賭博師の1回ごとの賭けの勝率は p、負ける確率は q(p+q=1)としよう。

次の図は、賭博師の勝つ確率が p=0.49 で(すなわち、相手の勝つ確率 q=0.51 )、

かつ、双方の最初の持ち点を5単位ずつとした時の勝敗の経過図例じゃ。


この例では、たまたま賭博師が勝った例の経過じゃ。

      

 ここで、賭けの成り行きの様子を賭博師のほうから眺めることにしょう。

当然、勝負は勝つことも負けることもある。しかし、1回の試行での勝つ確率 pが0.5より小さければ自分に不利なので、

賭けの勝敗としては負けることが多いことは予想できることじゃ。

賭博師は、p が賭けの(全体としての)勝敗にどのように関わるかを知りたく思ったとする。

また、元手の大きさも、賭けの勝敗に大きく影響することは直観的に理解できる。

なにしろ、少ない元手ではわずかの不運が続いただけで元手が尽き負けになるからのー。


  賭博師のこのような疑問に対しては、伝統的には、方程式を立ててそれを解いて答える方法がある。

この問題の場合、方程式の構成は特に難解というほどのものではないが、それでも数学に慣れた人でなければ、

解の解釈を含めてとっつきにくいものであることは確かじゃ。

さらに、式で示された方程式の解から有用な意味を引き出すことは、特別の人を除き、至難の技じゃ。

そこで、内容の核心を、視覚的に伝える新しく開発された伝達方法論(動的視覚化法)を用いて説明したい。

数式や言葉ではなかなか伝わらない事柄も、内容の視覚化でほぼ一瞬の内に伝わるんじゃよ。

 

賭博師の賭けの視覚的な表現

  最初、賭博師とその相手は手元資金としてmずつ持っているとしよう。

ゲームの勝敗の確定は、賭博師か相手のいずれかの手持ちの資金がなくなるとき決まる。

その間は、手持ちの資金の増減があるわけじゃ。これを、状態の変化と呼ぼう。

このとき、状態は賭博師の資金のみを指定すれば十分じゃ。賭博師と相手の外には資金は漏れず、足せばいつも一定なんじゃからのー。

  ここで、1回の試行に伴う状態の変化を視覚化してみる。

いま、賭博師の資金が a の状態にあるとする。1回の試行が行われた後は、次に示す2つの状態のいずれかに変化する。


         

実際はこの2つの変化のいずれかしか起こらんのじゃが、この2つの現象を同時に表現して、

1つの状態が分離して確率を伴って2つの状態に同時に移行すると考えてみる。すなわち、

状態aにあった量が2つに分かれて全体の p だけの量が状態 (a+1) に移り、

おなじく q(=1-p) だけの量が状態 (a-1) に移るとする。

これは、期待値の推移を考えることじゃ。

下図は、p=0.49、q=0.51の場合の推移じゃ。左右の移動量が少し違うことに注意してくだされや。

   

つぎは、この2つに別れた状態のそれぞれが同じ分離を繰り返すと考える。


2回目の状態の分離では、

状態 (a-1) にあった量の q が状態 (a-2) へ

p が状態aへと移り、

状態 (a+1) にあった量の q が状態aへ

p が状態 (a+2) へと移る。

3回目以降の状態の推移も同様に進んでいくと考えるんじゃ。


 ゲームが、双方とも元手 m から始めるときは、初期状態として a=m とし、そこから状態の分離を繰り返す。

して、左端の a=0 に達した推移は、これは賭博師の負けの状態じゃ。

また、逆の右端の a=2m に達した推移は、これは賭博師の勝ちの状態じゃ。

この両端に達した2つの状態からは、次の推移はもう生じない。

 状態の推移毎に左端 a=0 に達した量を集計すれば、それは賭博師の負けの確率を計算したものになる

右端 a=2m に達した量を集計すれば、賭博師の勝ちの確率になる。

状態の動きの中には進んだり戻ったりが続き、なかなか両端には達しないものがたくさんある。

しかし、十分大きい回数の試行ののちには、その時点で両端に達した量を合計が1になるように規格化すれば、

その規格化された値はすべての状態が両端のいずれかに達した時の正確な値になっているんじゃ。

つぎに、状態の推移を視覚化したものを示そう。これを見れば、いろいろな条件の下での最終結果に至る経過が実感としてわかる。

  


色々な条件の下での賭博師の勝率の結果を見てみると、驚くべきことが分かる。結果を記してみよう。

     p=0.49  双方の元手m  賭博師の最終勝率      p=0.45        双方の元手m  賭博師の最終勝率   

                 3        0.47                          3                0.354

                               5        0.45                          5                0.268

                              10        0.401                        10                 0.119

                               20        0.31                         20                 0.018

                40        0.168

                50        0.119



まずは、元手 m の影響の大きさじゃ。

1回の試行での確率が P=0.49 と賭博師側にわずかに不利という場合では、双方の元手が小さく不利な方でも結果として勝つチャンスはある。

元手が5のときは勝つ確率は 0.45じゃ。不利ながらまあまああるというべきか。

しかし、元手が多くなれば賭けの勝敗率は非常に悪くなる。元手 m=50 のときは、賭博師の賭けの勝率は0.12となる。

p=0.45 と不利が分かるような率の場合、元手 m=20のときは0.018とほとんど勝てない。

勝負においては、元手 m の影響は極端じゃ。その理由を次に示そう。

   勝負では勝ったり負けたりが多くあるので、元手が多い場合は賭けの最終決着がつくまでの試行の回数が多くなる。
   したがって、確率 p の小さいほうの不利が確定的に効いてくる。



理屈ではわかっても、これほど効いてくるとは予想外じゃな。

このことは、ゲームの均衡を考えるともっと目からウロコの現象が生じるぞ。次のような問いを建ててみるか。

  いま1回の試行での確率pを固定し、賭博師と相手との元手の合計 z があるとしよう。
  p が 0.5より小さいときはゲームは賭博師に不利じゃ。
  したがって、賭けの勝率をフェアー(0.5)にするために賭博師は元手の配分を少し多くもらわねば納得できんの。
  問題は、どれくらい多くもらえばゲームは均衡すると思うか 
 

という問いじゃ。


いま、p = 0.49 とし、元手合計 z=9 としょう。 p の不利な賭博師は元手合計の 9 の分配において1点多い5点をもらうとしょう。

調べてみると、
この1点配分が多いゲームでは、賭博師の賭けの勝率は0.5を超えて0.526となった。すなわち、1点多くもらえばゲームは大体均衡したわけじゃ。

つぎに、同じp = 0.49 で元手合計 z=40 の場合のではどれくらい多くもらえば均衡するか、シミュレーションで探ってみた。まず4点多い配分から始め、賭博師側に22、

相手に18と分配してみた。この条件では、賭博師の賭けの勝率は 0.363で依然不利なゲームじゃ。


ゲームが均衡するためにはもう少し賭博師側に多く配分する必要がある。

配分が25:15ではまだ均衡しない。26:14でもまだ賭博師側が不利じゃ。

27:13でやっと均衡することが分かった。

この条件で、賭博師の勝率は 0.518とやっと 0.5を超え不利を脱することができた。

しかし、27:13という配分の意味するところは、不利を解消するために2倍以上の元手をもらわねば釣り合わないということじゃ。

1回の試行での確率pが0.49とほんのわずかな不利としか思えないことが、元手計が40と多い勝負においては元手を相手の2倍もらわねば釣りあわないくらいの

不利になるんじゃ。
これは直観に馴染むかのー。

  p=0.45で元手合計 z=40の場合、ゲームがフェアーになるための元手の分配は4:36じゃった。

不利な側は相手のなんと 9倍もの分配でやっと均衡するが、これは皆の直観に合うかのー。



賭博師の賭けの解析結果の意味

  さて、これまでみてきた賭博師の賭けの意味するところは何じゃろーか。p=0.49 の場合を考えてみよう。

1回毎の勝つ確率が 0.49とは、わずかに分が悪いのじゃが、これはほとんど気が付かない程度の分の悪さじゃ。

双方の手持ち資金 bが小さい場合は、勝負は短期間でついてしまう。

この場合、1回ごとの勝つ確率 p が少し不利でも、勝負が短期で終わるので結果として自分が勝つチャンスは充分ある。

たとえば、b=5 の場合でも、最終的に勝つ確率は0.45でまだ充分じゃ。


しかし、双方の手持ち資金bを増やし50とすると、1回ごとの勝負のわずかに不利な側 (p = 0.49)の最終的に勝つ確率は 0.12になる。

bが100のときは 0.018と、勝つ確率がほとんどなくなってくるんじゃな。


また、合計手持ち資金 bが 40のとき、ゲームが均衡するように資金を分配すれば 27:13 じゃ。

p=0.49 という 0.5からのわずかな差でもこのようにかなり不利に効いてくる。これらより、次のようなことが言えるかの。

  「1回ごとの勝負に勝つ確率がわずかに不利であるとし、その何回かの勝負の結果として勝敗を決めるとする。
 そのとき、短期決戦ではあまり不利にならないが、長期戦になると不利な点が構造として現れて非常に勝ちにくくなる。」


このことから引き出されることは、勝負において不利な方は戦いを長引かしてはいけないことじゃ。

すなわち、短期決戦で行くことじゃ。昔の戦国時代、圧倒的な兵力を持つ今川に攻められた織田信長は、桶狭間で乾坤一擲の短期決戦で挑みた。

不利な方の勝つ確率が多少ともあるからじゃ。信長の偉いところは、自分が有利な方になったときは、必ず長期戦に持ち込んだことじゃ。

金持ち喧嘩せずとは、有利な方が長期戦に持ち込むことを意味するんじゃよ。

 

  我々は日々の生活の結果を重ねて一生を過ごす。

いま、1日を小さな賭けとみて、その勝率を p としょう。一生は80年として、人生は 365*80=29200 回の小さな賭けの結果の積み上げと考える。

試行の回数の多いゲームでは、1回の試行での勝率 p が 0.5よりわずかでも大きいか小さいかが重大な意味を持つ。

1日の生活における p とは、たとえば親切であるとかよく気がつくとか努力する人柄であるとか人の性格のちょっとした差異が反映したものと解釈される。

この差異は、100回や 200回程度の試行ではほとんど顕在化しない。

しかし、試行回数 5000回や 10000回になればはっきりと現われてくる。試行回数が大きいと、隠れている構造があらわれてくるんじゃ。

努力の結果 pを 0.5からちょっとでも大きくできた人は、途中いろいろな不運に出合ったとしても、長年のうちには構造が作用してうまくいくと説明できる。

p をどうするかは主に性格に依存する。

“運命は性格にある”とはこのことを指すものと考えられるが、如何じゃな。


最後が大切 

  リンカーンは、ある推挙された人の顔を見てその人を拒否した。理由を尋ねられた時の答えが、次のものじゃ。

     “Man over forty should be responsible for his face”

人相はこれまでの行為のすべてが畳みこまれていると考えてのことじゃ。

また、漢籍に次のような言葉がある。

  一日は夕日に重く 人間は晩清に貴し

これは、

   1日において昼間は雨風であろうが暮れるとき美しい夕日とともに閉じれば良い日であり、
   人生もまた若いときはいろいろ苦労があっても年老いて清らかであればその人生は成功である

との意なのじゃ。p をわずかでも 0.5 より高め維持していくとき現れてくる結果を言っているものと解釈できるかの。


次は、英国の詩人ブラウニングの詩の一節じゃ。

    The last of life for which the first was made 

   人生の終わり―これぞすなわち深く人生の初めの作られし目的 

という意味だそうじゃ。

いずれにせよ、賭博師の問題は長期戦における構造 pの影響のものすごさを教えるもので、構造を良くすること(pを高めること)の大切さを示すものじゃな。

 多少は分かったかの。

 

以上のようにつぶやかれて、ふくろう先生は眠りに入られました。


        





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落ち穂拾い雑感



    


  もちろん、これは有名なミレーの落ち穂拾いじゃな。

我々日本人は、落ち穂拾いといえば、収穫の落ち穂を単に拾っていると思うのじゃが、

この絵の背景には旧約聖書のある場面に基づいた情景があるんじゃ。

それは、キリスト教における神からキリストに至る聖なる家系の中の二人の女性についての物語の一場面じゃな。

ルツ記では、夫を亡くしたルツが夫の母親ナオミの故郷に帰りたいとの望みに沿った旅の途中の風景を記している。

当時は“恵まれない人のために落ち穂は残しておかねばならぬ”という律法があったそうじゃ。

この絵は、神の系譜につながる人のあるいはあったかもしれない場面を描いたものなんじゃ。

 

 目を転ずれば、ITを通して人の理性は爆発的にその影響範囲を広めておる。

杞憂に過ぎないことを願うが、将来、人間が自分の創った
AIの落ち穂を拾うことにはならんじゃろうか。

いや、これは十分可能性のあることとわしゃ思うておる。このような“落ち穂拾い”は避けたいのー。

知恵の源泉である人の理性が人を追いやるのは真の矛盾じゃな。


 動物行動学によると、オオカミは自分たちの強力な攻撃力の制御の術を作り上げておって、

ある種の儀式をすれば攻撃心が起こらないよう制御されるという。

人間も果てしのない理性の発展に思い切ってある種の制御をかけるべきではなかろうかの。

これが真の知恵と思うのじゃが。





このようにつぶやかれて、ふくろう先生は眠りに入られました。


       




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